ぎっくり腰をやった、ある夜のこと。
2355 を観ていた。
大きなコンパスが、足を回して円をすうっと墨で引いてゆく。
その合間に、画面のすみに、小さな球が現れる。
小さな球は、コンパスの軸へ向かってコロコロよたよた、転がってゆく。
そのうち、小さな球が、コンパスの足下に近づく。
それに合わせて、コンパスの足の速度が、ふと弱まる。
小さな球は、コンパスの気遣いなど全く気づかぬ風に
コロコロよたよた、まっすぐにコンパスの引く円の中へと入り込み、
軸へと辿り着く。
コンパスは、小さな球が自分の引く円の中に
無事おさまったことを見届けてから、
ようやく一気に足を動かし、ひとつの円を引き結ぶ。
ほんの数秒の簡素なアニメーションだった。
見終わったあと、「かわいい」とつぶやいていた。
つぶやいてから、私はこのアニメーションの
「なにか」を「かわいい」と
思ったのだ、と思った。
点と線だけの簡素なアニメーションだ。
「かわいい」と思ったのは「造形」に、ではない。
「かわいい」は「動き」にあるのだろうか。
大きなものが、小さなものを見守る「動き」
小さなものが小さなままに、一途に動いてゆく「動き」
それらをみつめる作り手の視線の「動き」
まったく話飛んで、
ハーフパイプの、15歳の平野少年の目の静けさ、強さ。
そしてショーン・ホワイトの
顔の長さ…顔の凄さ…
思わず画像検索をかけてしまったほど。
いくつかは、保存した。