『ククーシュカ ラップランドの妖精』というロシアの映画がある。
それの主人公の野生的な女性ククーシュカが、どうにも私の友人に似ているように思えてしょうがない。
その彼女の話をしようと思う。
『野生の人』
マルーはむかし美術館で受付の仕事をしていた。
その頃の同僚に、むーちゃんという女性がいる。
むーちゃんはその前は、丸の内でOLをやっていた。
だがある日突然
「今私をとりまく状況も、人も、私自身も、何もかもがクソだ」
と気づく。
そのあとのむーちゃんは早かった。
殆ど何の荷物も持たず、彼女はメキシコへと飛ぶ。
え?なぜ、メキシコへ?と私は聞いた。
「はあ、なんか楽しそうじゃないですか」
と、むーちゃんは言っていた。
そうして、メキシコへ着いたものの、お金も、人のあても、何もなく、
スペイン語もまったく喋れず、何のやる気もおきず、
ただひたすらムーちゃんは、公園でぼーっと過ごした。
何日も、何日も。
すると、だんだんと老若男女が集まってきて、
「どうした。なぜ元気がない」とむーちゃんに聞くので、
「腹がへった」と答えると、みんな手に手に食べ物を持ってきて、
むーちゃんに腹いっぱい、ごはんを食べさせてくれた。
モグモグと、もらったごはんを食べているうちに、
むーちゃんには、たくさん友だちができた。
やがて、むーちゃんは友だちがやっているコテージに泊まるようになる。
世界中から、あらゆる国籍の人が集まる、
田舎のコテージでの日々は、楽しかった。
そんな夢のような場所での、ある日のこと。
むーちゃんはふと思い立って、森の中へと入ってゆく。
しばらく行くと、カカオの木が立っていた。
それは、たわわに大きな実を実らせ、輝いていた。
むーちゃんはフラフラと生のカカオをもいで、両手で抱え、アパートへ持って帰った。
そしてカカオを包丁で割り、身を取り出し、ゴリゴリとすりこぎですって、
湯をそそぎ、砂糖で煮詰めて、ゴクゴク飲んだ。
そうしたら、あまりの美味さに、頭が真ん中から、パッカーン!!と割れて、
虹が出て、光がほとばしって、止まらなくなった。
空調の効いた美術館のロビーで、黒い制服をビシッと着たむーちゃんからくりだされる
よくわからないなんだかすごい話に、
私はそばにいる客を気にしながら、ちいさな声で「…すごいね」としか、言えなかった。
「はい。日本への生のカカオの輸出を本気で考えました」
え?さっきまで神秘的な話だったのがいきなり商売の話になるの?
なんてすがすがしく逞しい、むーちゃん!
私は我慢できず、ゲラゲラ笑った。
美術館での受付仕事は、私にとって
美術館で働きたいと思うような変な女たちの話を聞くための貴重な時間だった。
当時むーちゃんは美術館で受付をする傍ら、
なぜか恵比寿の汚いビルの地下で、たこ焼きパブの手伝いもしていた。
私はそこへ一度だけ飲みに行ったことがある。
むーちゃんは、淡々とたこ焼きをひっくりかえしながら、
都会の地下でコツコツと働いてお金をつくっていた。
おそらくは、またここじゃないどこかへ行ってやる、とふつふつと胸に炎をたぎらせながら。
そんな彼女は今、フランスにいる。
旅立つ前、
「なぜ、フランスへ?」
と私は聞いた。
「はあ、フランスはだって、ごはんおいしいじゃないですか」
と、むーちゃんは言っていた。
むーちゃんは、どこまでもむーちゃんとして、筋が通っている。
やがて彼女はフランス人の男性と「いい仲」になり(彼女がそう言っていたのだ)、
するとその男性がたまたま、本気のワイン農家の人だった。
むーちゃんはワインも大好きだ。
かれらは結婚した。
むーちゃんは突如、農家の女になった。
彼女は今や、フランス郊外で恐ろしい数のアルパカや羊を飼い、
何頭もの犬や猫とともに古民家で暮らし、
食事のときにはゴクゴクと水のようにワインを飲んで、
1日中日光をガンガン浴びて、動物たちの世話をして、
土を耕して、たくましく働き、よく食べよく寝て、生きている。
むーちゃんの夫、ピエールに怪訝な顔で聞かれたことがある。
「ムツミは僕の妻ながら謎なんだ。元々彼女、都会の子だろ?
どうして、農家の僕よりも彼女の方が早く田舎生活に馴染んでしまうんだ?」
私はただただ、爆笑した。
むーちゃんはもう、ここじゃないどこかへいきたいとは思っていないだろう。
むーちゃんが、ただむーちゃんとして生きて、
そのまま、むーちゃんになったという、そういう話。